もぐらくんの生活(Carpe diem)

COPDを抱えて、仮想空間「もぐら堂」で日々の生活をボチボチ綴っています。

もぐらのための備忘文記録 文/山本奈緒子 氏

累計販売部数200万分超えのベストセラーシリーズ『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』。著者である岸見一郎先生は、「トラウマは存在しない」「すべての悩みは対人関係にある」といった斬新な考え方が話題となったアドラー心理学の第一人者としても知られています。その岸見先生が、幸福について考えたのが『幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの知恵』(講談社現代新書)。そもそも幸福とは何か? そして幸福への道とは? 本の内容から、一部を抜粋してお届けします。

 

幸福は空気のようなもの
どうすれば幸福になれるのかを考えようとすれば、まず「幸福とは何か」という問いを立てなければならないだろう。幸福が何かを知らなければ、どうすれば幸福になれるかも分からないからだ。だが問題なのは、幸福については定義することができないということだ。

幸福は空気のようなものだ。空気がある時には誰もその存在には気づかない。なくなった時に初めて、空気があればこそ生きることができていたことに気づく。幸福も、失われた時、初めてその幸福を経験する。だから、幸福が失われるのはどんな時なのか、その時どう感じるかを見ることが、幸福が何であるかを知ろうとするためのきっかけになる。

成功しさえすれば幸福になれると信じる人たち
大学に入り、就職しさえすれば幸福になれると思っている人がいる。そのような「成功」を約束し、そのための方法を教える人もいる。
そのような知識を教える人は、幸福と成功を取り違えている。お金を得るというような成功も、たしかに幸福を構成する要件ではあるかもしれない。だがそういった人は、はたして成功することが幸福なのかという疑問はいささかも持たない。成功しさえすれば幸福になれると、固く信じて疑わない。

立身出世という言葉は今の時代は死語なのかもしれない。たとえそのようなことを願っていても、大企業であっても潰れる時代なのだから、たとえよい学校に入り、よい会社に入っても幸福な人生を送れるかどうかは分からない。
それでも時代の変化に気づかず、あるいは気づかないふりをして、今なお、少なくとも自分だけは幸福になれると思い、競争に勝ち抜くことで幸福をつかみ取ろうとする人もいる。そのような人にとっては、よい学校、よい会社=幸福という図式が崩れた今の時代状況は、幸福を阻む要因以外の何ものでもない。

幸福に「なる」のではない、幸福で「ある」のである
成功することが、幸福に生きることを保証してくれるわけではない。この場合の成功とは有名大学に進学し、一流企業に就職するというようなことだろうが、そのような人は子どもの頃から、まわりの大人に成功することが大切だと吹き込まれている。
 家族や親戚に成功した人がいれば、そんな人になれと言われる。かくて、何かに「なる」ことが大切だと思ってしまう。今「ある」ところにいてはいけなくて、どこかに向かっていかなければならない。当然、後ろに退くことなどあってはならない。

哲学者の三木清は、成功は「過程」に関わるが、それに対して「幸福は存在に関わる」と言っている。何も達成していなくても、何も所有していなくても、成功しなくても、人は幸福になることができるのだ。
より正確に言えば、成功しなくても幸福に「なる」のではない。幸福で「ある」のである。それが「幸福は存在に関わる」ということである。

成功・不成功と幸福・不幸を同一視している人は、成功しなければ幸福になれないと思っている。しかし今日では、成功したからといって、そのことがかえって人を不幸にするケースが頻りに報道されている。それでも、成功を目指すことを完全に断念する人は少ない。高学歴で一流といわれる企業に就職しても、過労死しかねない労働を強いられることがあると聞かされていても、そしてたとえそのような生活が幸福には結びつかないことを知っていても、自分に限ってそんなことにはならないと思う。実際、多くの人は昇進し、経済的に報われる生活をしているのだから、自分もそのような生活を送れるに違いない、そう思いたいのだ。

 幸福は質的なものと知れば、嫉妬しようと思わない
三木清によれば、幸福は質的なものであり、成功は量的なものである。
お金を得ることや出世するというようなことであれば、イメージはたやすい。ところが幸福は質的なものであり、しかもその幸福は「各人においてオリジナルなもの」なので、他者には理解されないことがある。成功が一般的であるとすれば、幸福は個別的である。

量的なもの、一般的なものと考えられる成功は誰にでも手に入れられるように思われるので、嫉妬の対象となりうる。他方、幸福は質的であり、個別的、各人のものなので、他者からの嫉妬の対象とはなりにくい。
それでは量的なことであれば、必ず嫉妬の対象になるかといえばそうではない。百メートルを走るのに十秒を切る人がいても、そのような人を嫉妬する人はほとんどいない。決して自分の手に届く記録ではないことを知っているからだ。

他者の美を妬む人はいる。他者の美を量的なものと考えているからである。美を量的に捉えている限り、自分にも勝てるのではないかと思う。しかし、他者の美に到底追随できないとわかれば嫉妬しなくなる。つまり、美が質的な差異であると知れば嫉妬しようとは思わないし、勝とうとも思わなくなる。化粧や整形ではどうすることもできない美は追随しようがないからである。

 その際、自分は他者の美に敵わないと思う必要はない。他者と自分の美は質的に異なり、比べることができない。そう見ればいいのである。もちろん、自分の質的な美も他者から追随されることはない。

幸福であると思われさえすれば良い、という人は多い
また、幸福であると「思われる」ことには意味はなく、実際に幸福で「ある」のでなければ意味がない。実際に幸福で「ある」人は、他の人には幸福に見えないかもしれないとしても。

プラトンは『国家』の中で、ソクラテスに次のように語らせている。

「正しいことや美しいことの場合は、多くの人はそう思われることを選び、たとえ実際にはそうではなくても、とにかくそう思われることを行い、そう思われるものを所有し、人からそう思われさえすればよいとする人々が多いだろうが、善いものの場合は、もはや誰一人、自分の所有するものがただそう思われているというだけでは満足できず、実際にそうであることを求め、たんなる思われは、この場合、誰もその価値を認めないのは明らかではないか」

幸福であると思われるだけでは何の意味もない。実際に幸福でなければならない。成功して富を得たとすれば、その富の額は測れるという意味で量的であるから、その額によって富を所有する人が幸福に見えるかもしれない。だが、富を所有していることが本当に幸福なのかといえば、決してそれは自明ではない。

「幸福感」を追求することは危険である
およそどんな行動をする時も、何を目的として行動するかを問題にしなければならない。その目的とは善であり、幸福である。それを問題にせず、情緒的なものに訴え、行動へと駆り立てるのは危険である。
 為政者は国民の熱狂的な幸福感を必要とする。為政者は国民が自分で考え、判断することを何よりも恐れる。為政者の考えを無批判に受け入れさせなければならないからだ。そのために感情に訴え、感情を煽らなければならない。

他者に煽られたり、流されたりすることなく、自分がしようとしていることの目的を見極めようとする人は、主体的に幸福を選択することができる。そのような人は、皆が進むのと同じ方へと向かって歩いていこうとはしないことがある。皆が酔っているのに、その人一人だけが醒めている。皆が成功を目指していても、日常のささやかな幸福があることを知っている。そのような人が為政者にとって好ましくない人であることは間違いない。

幸福とは何か、どうすれば人は幸福になれるのかと考え始めた時、人はもはや幸福ではないのかもしれない。とはいえ、このような問いを立てないといけないような不幸な出来事を経験しない人もまた、いないだろう。

しかし、幸福を阻むように見えることがすぐに思い浮かぶとしても、そのこと自体がすぐさまその人を不幸にするわけではない。反対に、成功したり、幸運に恵まれたからといって幸福になれるというわけでもない。それどころか、これまで見てきたように、何かを経験するから幸福になるわけでも、反対に不幸になるわけでもない。繰り返すが、人は幸福に「なる」のではなく、すでに幸福で「ある」。そのことを知った人は、幸福になるために何かの実現を待たなくても、日常の瞬間に幸福を感じることができるだろう。

 

岸見一郎
哲学者。1956年生まれ。京都在住。高校生の頃から哲学を志す。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。(←もぐらの註 超エリートを意味している)哲学と並行して、1989年からアドラー心理学を研究。古代哲学やアドラー心理学の執筆、講演活動、また精神科医院などで多くのカウンセリングを行う。著書に『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(ダイヤモンド社)、新著『哲学人生問答 17歳の特別教室』(講談社)などがある。

<書籍紹介>『幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの知恵』
岸見一郎著 講談社 ¥760

アドラー心理学の第一人者として知られる著者が、アドラーソクラテスプラトン、ソロンなど様々な古代ギリシアの哲人の智恵から、「幸福」について徹底的に追求。私たちはなぜ幸福になれないのか、幸福への道とはどのようなものなのか。そして人生をどう生きるべきなのかを、あらゆる視点から論じた一冊。


文/山本奈緒

 

もぐらメモ

※もぐらの自己探求の結果と同じ解を持つ人がいたことを知って、凄く驚く。独学で

も研究できる事を実感した。

I am.の意味が分からない人が多いと言うことも、講師の時期を通して驚いたことと

似ている。

哲学とは答えを出さないことがその目的である事を知らない人が多いと言うことにも

通ずる。