もぐらの友達が紹介されていました。\(^_^)/
もぐらです。
昨日の記事、なんだかお別れの言葉のようになってしまって、タイトルの一部を変えると一度閉鎖されることになってしまうのかな?
もぐらがちょっと心配になりました。
さて、今朝起きてパソコン見ましたら、なんともぐらの友人のことが取り上げられているではありませんか。
びっくりしました。インターネット社会恐るべしです。
それでちょっと紹介したいので、朝から記事を書くことにしました。
友人のピュロンくんです。(ちょっと長いです。)
記事はBEST TIMES社からの一部複写です。
悩みから開放されて安楽を得るには?哲学者「ピュロン」に学ぶ
いまも語り継がれる哲学者たちの言葉。自分たちには遠く及ぶことのない天才……そんなイメージがある。そんな「哲学者」はいかに生き、どのような日常を過ごしたのか? ピュロン編。
■「究極の答え」は存在するのか?
人は何故、何のために生きるのか。世界の始まり、そして終わりはどのようなものなのか……。生きていく中で、多くの人々を悩ませる難問である。哲学者、文学者、宗教家、芸術家、科学者たちは、この簡単に答えられない難問に対して答えを出すため、必死に取り組んできた。
なんとかしてある答えにたどり着いたとしても、やがて他の者が否定し、乗り越える答えを出してしまう。その答えもまたいずれ否定され、乗り越えられてしまう。
絶対に正しい究極の答えがわかれば、人間は悩みから解放されて生きていけるようになるだろう。だが、ある答えが提示されてもそれがやがて否定されてしまうのであれば、人間は永久に悩みから解放されることはなく、苦しみ続けることとなる。
古代ギリシアの哲学は、自然界の正しい姿を知り、その背後にある根源的な原理を知り、正しい生き方を知ることを目指していた。だが、哲学者たちがどれだけ時間と労力をかけて議論を尽くしたところで、全ての者が一致できる真理に到達することはなく、議論は果てしなく続いていった。
しかし、そもそも「答え」などあるのだろうか……?
人は何故、何のために生きるのか。世界の始まり、そして終わりはどのようなものなのか……。生きていく中で、多くの人々を悩ませる難問である。哲学者、文学者、宗教家、芸術家、科学者たちは、この簡単に答えられない難問に対して答えを出すため、必死に取り組んできた。
なんとかしてある答えにたどり着いたとしても、やがて他の者が否定し、乗り越える答えを出してしまう。その答えもまたいずれ否定され、乗り越えられてしまう。
絶対に正しい究極の答えがわかれば、人間は悩みから解放されて生きていけるようになるだろう。だが、ある答えが提示されてもそれがやがて否定されてしまうのであれば、人間は永久に悩みから解放されることはなく、苦しみ続けることとなる。
古代ギリシアの哲学は、自然界の正しい姿を知り、その背後にある根源的な原理を知り、正しい生き方を知ることを目指していた。だが、哲学者たちがどれだけ時間と労力をかけて議論を尽くしたところで、全ての者が一致できる真理に到達することはなく、議論は果てしなく続いていった。
しかし、そもそも「答え」などあるのだろうか……?
■「懐疑主義」を形成した哲学者・ピュロン
哲学者ピュロンは、人が生きる理由や目的も、万物の根源や究極の原理に対しても、誰も完全な答えを出すことができないと考えた。答えを出せない問題に悩み、苦しめられるくらいなら、無理に答えを出そうとするのではなく、何が真理なのかという判断を停止して、平静な心境でいたほうが、人間は幸福に生きられる。このように論じたピュロンとその弟子たちは「懐疑主義」と呼ばれる学派を形成していた。
ピュロンは紀元前360年頃、ギリシア西部のエリスで生まれた。アレクサンドロス大王と凡そ同年代である。若い頃は貧しい画家だったが、やがてアレクサンドロスの宮廷に仕えていた哲学者アナクサルコスに弟子入りし、共にマケドニア軍の遠征に帯同して、インドまで旅することとなった。
アレクサンドロスは少年時代にアリストテレスを家庭教師として勉強したためか、哲学に関心が高く、インドでも裸の行者たちと積極的に議論を行うほどだった。遠征に帯同していたピュロンもこの時、インドの哲学者、宗教家たちの教えを聞き、強く影響を受けたようだ。そのせいもあってか、彼の哲学にはインド的、東洋的な発想に近いものも感じられる。
ギリシアに戻ったピュロンは、友人や弟子たちと共に哲学を深めていった。彼の教えとして知られているのは、物事の真理は把握できないということ、何事においても判断を留保しなければならないということ、何ひとつ美しくもなければ醜くもなく、正しくもなければ不正でもないということ、「あれである」よりもむしろ「これである」ということはなく、人々はただ法と習慣に従って生きているということ……などである。
同時代の他の哲学者たちは「〇〇とは××である」というように「答え」を言い切る主張をしていた。だが、ピュロンは「どの言明にも、それと対立する言明がある」と言った。感覚は人によって違うので、ある人に暑いと感じられても他の人には寒いと感じられることがある。国によって文化が変わるので、ある国では善いとされることが別の国では悪いとされることがある。ピュロンの懐疑主義では、現にあるものをあるがままに受け入れて、それが何であって何ではないのかということの判断を留保するのである。
「〇〇とは××である」というような形で何かが答えとして判断されるためには、正しい規準に基づいて論証されなければならない。だが、正しい規準が見出されるためにはそれに先立つ論証が必要となる。このような堂々巡りに陥ってしまうため、正しい規準も論証も、それ自体で把握されることができない。循環論法や無限背進に陥らないためには、人は何かを真理として判断することを差し控え、物事をあるがままに受け入れなければならないのである。
懐疑論は否定のための哲学ではなく、肯定も否定もせずに判断を留保することで心の平静さを保つための実践的な生き方の哲学である。死後の世界はあるかどうか、死後の魂はどうなるのか、天国や地獄はあるのか……そういった問いに対して、肯定も否定もしないことで、自らが死んだ後のことについて思い悩むこともなく、平静な心境で生きられるようになるだろう。
哲学者ピュロンは、人が生きる理由や目的も、万物の根源や究極の原理に対しても、誰も完全な答えを出すことができないと考えた。答えを出せない問題に悩み、苦しめられるくらいなら、無理に答えを出そうとするのではなく、何が真理なのかという判断を停止して、平静な心境でいたほうが、人間は幸福に生きられる。このように論じたピュロンとその弟子たちは「懐疑主義」と呼ばれる学派を形成していた。
ピュロンは紀元前360年頃、ギリシア西部のエリスで生まれた。アレクサンドロス大王と凡そ同年代である。若い頃は貧しい画家だったが、やがてアレクサンドロスの宮廷に仕えていた哲学者アナクサルコスに弟子入りし、共にマケドニア軍の遠征に帯同して、インドまで旅することとなった。
アレクサンドロスは少年時代にアリストテレスを家庭教師として勉強したためか、哲学に関心が高く、インドでも裸の行者たちと積極的に議論を行うほどだった。遠征に帯同していたピュロンもこの時、インドの哲学者、宗教家たちの教えを聞き、強く影響を受けたようだ。そのせいもあってか、彼の哲学にはインド的、東洋的な発想に近いものも感じられる。
ギリシアに戻ったピュロンは、友人や弟子たちと共に哲学を深めていった。彼の教えとして知られているのは、物事の真理は把握できないということ、何事においても判断を留保しなければならないということ、何ひとつ美しくもなければ醜くもなく、正しくもなければ不正でもないということ、「あれである」よりもむしろ「これである」ということはなく、人々はただ法と習慣に従って生きているということ……などである。
同時代の他の哲学者たちは「〇〇とは××である」というように「答え」を言い切る主張をしていた。だが、ピュロンは「どの言明にも、それと対立する言明がある」と言った。感覚は人によって違うので、ある人に暑いと感じられても他の人には寒いと感じられることがある。国によって文化が変わるので、ある国では善いとされることが別の国では悪いとされることがある。ピュロンの懐疑主義では、現にあるものをあるがままに受け入れて、それが何であって何ではないのかということの判断を留保するのである。
「〇〇とは××である」というような形で何かが答えとして判断されるためには、正しい規準に基づいて論証されなければならない。だが、正しい規準が見出されるためにはそれに先立つ論証が必要となる。このような堂々巡りに陥ってしまうため、正しい規準も論証も、それ自体で把握されることができない。循環論法や無限背進に陥らないためには、人は何かを真理として判断することを差し控え、物事をあるがままに受け入れなければならないのである。
懐疑論は否定のための哲学ではなく、肯定も否定もせずに判断を留保することで心の平静さを保つための実践的な生き方の哲学である。死後の世界はあるかどうか、死後の魂はどうなるのか、天国や地獄はあるのか……そういった問いに対して、肯定も否定もしないことで、自らが死んだ後のことについて思い悩むこともなく、平静な心境で生きられるようになるだろう。
続きは引用元へどうぞ。
昔はよく議論したのですが、もぐらはもぐらで影響を受け、得るところも多く、その後もぐらなりに歩んできました。
懐かしい名前が出ていたので、ご紹介しました。\(^_^)/