いま、頭の中でつながったことなど・・・
このブログにご訪問していろいろな形で応援してくれる皆さん、
いつも、とてもとてもたくさんのどうもありがとう。(^o^)//
もぐらです。
12月がと言うよりも、今年があと半月ほどになりました。
人それぞれ思うところは違うでしょうが、もぐらの場合は通院や検査の
スケジュールが一年を管理していような感じなので、お盆と年末年始は
通院が無く、ゆっくり出来るバカンスと言った方が良いようです。\(^_^)/
頭の酸素が不足している生活を送っていると、悩む能力があまりないので、
犬じゃ無いけど、よく眠くなります。考える能力も下がるようで、悩むことも
考える事も体力が必要なんだなぁ。と今更ながら感慨深いものがあります。
さて、どこぞのお寺の入り口に「おまえも死ぬぞ」と書かれた板が建っていると
聞きました。非常に良いことだと感心しました。
個人が1番先にというか、基本的に忘れてしまう知識の代表に「自分は死ぬぞ」
という知識があります。
致死率100%という人間にとっての公平・平等な事実は、数少ない救いである
と思います。
「夜と霧」ではありませんが、人間にとって最も辛いことは{ 絶 望 }であると
言うのは事実なんだろうと想像しますが、もぐらにとっては、(最近よく使う)
{ 切りが無い }と言うことは場合によっては、絶望を超える苦しみじゃないか
と思います。全てこれ、{切り}という区切りがあるので、安心して、生きてい
られるところがあると思います。
もぐら個人が15年近く考えてきた結果、やっと、至った区切りは60年。
いろいろ理由などはありますが、それは省略するとして、生まれて此の世に
60年いれば大抵のことは出来るだろうと言うことと、死というと、どうも
否定的なイメージがあるのですが、木が枯れるように、寿命だったんだという
ような観念が間違っている気がしてならないのです。
あえて誤解を恐れずに表現すると、散歩や会社や日常外出するような形で、
元気に
「大変お世話になりましたが、出かけたくなりましたので、ごきげんよう。
さようなら。」と歩いて火葬場に行ける区切りの付け方。
そこにある種の尊厳を見いだすもぐらは、特殊かも知れません。
もぐらの少ない願いの中に、もぐらの死に顔を誰にも見られたくないという
項目があります。
もぐらは恥ずかしがり屋なので、生きているときさえ見つめられると恥ずかしい
のに、死んだ後まで顔を見られるなんて、とてもとても恥ずかしくて・・・。
それだったら、生きてる間にたくさん見ておいてよ。口もきけるし。
頭でつながったのは一瞬でしたが、文章は時間が掛かるので、ここで疲れて
しまいました。(笑)(^o^)//